なぜ大企業では不祥事が起こるのか?

大企業では時に、信じられないような不祥事が起こります。
以前、銀行の窓口である手続きをしました。
その際の書類の不備があったと連絡がありました。
その不備は、銀行員のミスによるものです。

電話口で彼は言います。
「〇日までに印鑑と通帳を持ってきてください」と。
いやいや、ミスをしたのはあなたで、困らせられたのは私。
ならば、私のもとに出向いて謝罪をしたうえで手続きするのが筋でしょう。
しかし、彼はそれはできないの一点張り。
まあ、金融機関だけに、いろんなルールがあるのでしょう。
ミスは彼の問題だったとしても、その後の対応は彼ではなくその銀行や金融業界のルール。
だとすると、彼を攻めても何の意味もありません。
仕方なく銀行窓口に出向いたことを記憶しています。

 

この事例に限らず、大企業は時々おかしなことをします。
たとえば、明らかに大企業のミスなのに、まともに謝罪の言葉を口にしないことは多い。
きっと、会社にそれはするな、と止められているのでしょう。

 

こういった会社においては、個別の事例に人としてかかわると出世が遅くなるという都市伝説があります。
たとえばお客さんの心情は理解できる。
しかし、会社の方針は別のところにある。
こういったときに、お客さんの言い分に引っ張られることなく、会社の方針に従う人ほど出世する傾向が高いように思います。
本来、お客さんを大事に、とCMをしている企業が、お客さんより会社の組織としての統制を大事にしているのは多くの人の知るところでしょう。

 

こういったことがなぜ起こるのでしょう。
「ああ、こういうことか」と思ったのが、心理学の世界で名著の誉れ高い「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)という本。
これは著者が、アウシュヴィッツ収容所(正確にはその支所)で強制労働の過酷な環境の中で観察した心理学的考察を著したものです。
そこで、強制労働を強いられる人たちは、数日の間で感情をなくしていくといいます。
目の前で、同室の仲間がリンチにあっていても、何の心の動きも生じない。
ただおこっていることを傍観するだけになるそうなんです。

さすがに、強制収容所の話は極端ですが、大きな組織の歯車として働くとき、それに似た心理作用が働くのではないかと思うのです。
個人としての道徳観や、感情よりも、組織としての動きを優先させる。
顧客の叫びに、感情移入しない。
そんな癖がついてしまうのではないかと思います。

 

もちろん、ほとんどの大企業は、まともなはずです。
しかし一部の企業がありえない問題を起こす。
隠ぺいやデータ改ざんなど、場合によってはそれが人の命を脅かすものであったとしても、そこに対して不感症になる環境があるのではないかと思うのです。

 

ということは、企業における社風というか、会社の組織のあり方というのは人としての生き方についても左右しかねない重大な問題です。
近年ブラック企業という言葉が一般化して久しいですが、ブラック企業の問題は長時間労働ではありません。
会社の方向性に関する部分が最大な問題なのです。
人は、人に役立つことをやっている実感を得ているとき、心身を壊すことはそうそうはありません。
人をないがしろにする組織こそが、ブラック企業といえます。

 

さて、件の「夜と霧」では、強制収容所内ではクリスマスを終えると死者が一気に出るそうです。
それは、「クリスマスには、温かい家庭に戻れるはず」という希望が、クリスマスを終えることでついえるからだといいます。
過酷な強制収容所内では、希望が持てるか持てないかが生死の分かれ目だったようです。
会社の中に希望の光がある状態がとても大事なのだといいます。
あなたの会社には、希望はありますか?

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